外国人も暮らしやすい社会を創る
佐々翔太郎
ASEAN HOUSE CEO/Live the Dream Co., Ltd. 創業者
中央大学法学部卒業。大学1年で初めて訪れた海外・フィリピンの心温かい人々から大きな感銘を受け、途上国の可能性に興味を持つ。大学4年次には文科省『トビタテ留学JAPAN』第6期奨学生に選出され、NPO法人『e-Education』の現地責任者でミャンマーに駐在。映像教育を広める傍らミャンマー初のキャリア・進学メディアLive the Dream Co., Ltd. を現地の若者と学生起業し、ユーザー100万人の規模まで成長させ事業売却。その後 株式会社リクルート に新卒入社し『じゃらん』の新規事業であるホテル向けSaaS事業に関わる。その後、ミャンマークーデターを契機に株式会社ASEAN HOUSEを設立。座右の銘は「失敗しても当たり前。成功したら男前。」
▼”ASEAN HOUSE”紹介ビデオ▼
https://www.youtube.com/watch?v=U3r_JbkXiVE
▼過去事業”Live the Dream”紹介記事▼
https://digital.asahi.com/articles/ASN853FXPN84UHBI029.html?pn=9
激動の幼少期
父親は大手生命保険会社に務めるエリートサラリーマン。お金には一切困らず、教育熱心な母の下で英才教育を施されて来ました。
小学校4年生の時父親の転勤で栃木県に引っ越すも、小学校でただ一人中学受験に挑み見事都内の名門芝中学に合格。周りの友達からは天才君などと呼ばれたりもしました。
しかし、中学に入り状況は一変します。両親が突如離婚。何とか私立中学に通い続けることはできましたが、母と二人の家庭には 金銭的余裕は無く、おぼっちゃまだらけの周りから引け目を感じることは多くありました。学校からの帰り道では、皆買い食いで1個160円のファミチキを食べますが私は母が作ったおにぎりで我慢。野球部だったのですが、周りが頻繁にグローブを買い換える中で私は6年間同じものを使い続けました。
そんなお金がない中でも一生懸命、私を私立中学・高校へと通わせてくれた母に恩返しがしたいと、野球には真剣に取り組みました。
しかし、最後の大会も結局レギュラーとして試合に出ることは叶わず。一生懸命応援してくれていた母を喜ばせてあげることのできない自分が本当に情けありませんでした。
周りとの金銭的な劣等感に加え、野球でも敗北。そんな負い目を晴らすかのように口だけは立派に育っていたと思います。そんな私のことを周りは「口だけ野郎」とからかうようになっていました。
そんな周りを見返すのはもう勉強しかありませんでした。かつて天才君と呼ばれた頭脳で周りを見返してやろう。家庭の金銭的な事情を考えると国公立に限られ、周りを見返せる大学…。東京大学しかありませんでした。しかし、野球ばかりやっていた高校時代。模試での偏差値は40を下回っていました。そんな状態から「口だけ野郎」がまた東大を目指すとか言うもんだから、それはもうからかいの的。周りの皆は「そんなの絶対無理だ!笑」とからかい続けました。もう私は躍起になり、東大一本で勝負を挑み見事に失敗。現役・浪人時代を含め落ちに落ち、第8志望くらいの中央大学に進学することになりました。流石に大学生にもなり周りはからかわなくなりましたが、私の中での劣等感は更に募っていきました。
失意の大学入学
そして、中央大学入学後は失意のどん底にいました。入学式なんて本当に行きたくありませんでした。今同じ大学の人には申し訳ないですが、なんで私はこんなとこにいるんだと何度思ったことか。そして高校や予備校の周りの人間には馬鹿にされているんだろうな、と思う毎日。そんなことを考えながら大学にもサークルにも馴染めず、だらだらとバイトだけをして一年ほど過ごしました。
「こんな生活、抜け出さなければならない。」
そう思い私は大学のやる気応援奨学金という奨学金をもらい留学プログラムに応募。無事合格しフィリピンのセブ島に留学しました。今となっては沢山足を運んでいますが、私自身発展途上国に行くのはその時が初めて。そこには、大学に行けているのに大学名を気にしてうじうじしている私とは対照的に、食べ物も十分に食べられず住むとこもまともに確保できていないにも関わらず毎日満面の笑みで楽しそうに暮らしている子ども達がいました。
「なんて自分はちっぽけなんだろう。」
本当に自分が情けなくなりました。もっと前を向いて、人生明るく楽しく生きていこう。それからの大学生活は一変しました。フィリピンに行く前はバイト先であまりにも笑顔が少なくて鉄仮面と呼ばれていたんですが、フィリピンから帰って来てからはそんなあだ名は消えていきました。そんな人生において一番大切なことを教えてくれたフィリピンの子ども達に今度は私は何ができるだろうと考え始めたのがきっかけで国際協力というものに興味を持ち始めました。
そして、その後は世界各国(約20カ国)を渡り歩き多くの人々と語り合い、学問では貧困問題解決手段としてのマイクロファイナンスについて興味を持ち、その研究に専心しました。
そして更にどっぷりと国際協力の世界に足を踏み入れるべく、NPO法人e-Educationの現地責任者としてミャンマー渡航を決断。文科省主催の奨学金プログラムトビタテ留学Japan6期生としても採択されました。
ミャンマーで一念発起・起業
NPO法人e-Educationとは「世界の果てまで最高の授業を届けよう」という理念の下、東南アジアを中心とした途上国の地方に映像授業を普及させていくことなどを通して教育格差の是正に取り組んでいる団体です。そのe-Educationのミャンマープロジェクトリーダーとして、ミャンマー地方のチン州という所の公立学校に映像教育を広め、高校卒業試験の合格率(チン州は10%ほど)を向上させようというものでした。
しかし、そのプロジェクトを率いて学校を訪問して回っている際、意外にもそこにはやる気がなく見える学生が沢山いました。学生の生活を観察していると勉強時間も圧倒的に足りていないし、机の上に座っていても集中していない学生もたくさんいました。
「いくら学習環境を整えても、やる気がなければ試験に受からないのも当然だ」
そう感じました。映像授業で本当に支援できているのは、全体の中の少数のやる気のある学生で、残りの多くのやる気のない学生にはアプローチできていませんでした。
『やる気のない学生』だって応援したい!
そんな思いが自分の中で沸々と湧いてきました。そんな想いが自分の中で沸々と湧いてくるのには理由がありました。厳しい環境下で未来に対して希望を見出せずダラダラと過ごす毎日。そんな彼らの様子は以前の私に似て重なりました。少年時代に、今まで一緒に暮らしていたはずの父親が突如消え、家族同士が法廷で戦い続けることになってしまった複雑な家庭環境。そんな中で未来に希望など持てず下を向いてばかりいたのをうっすらと覚えています。失った大人への信頼、未来への希望。私は実は、一時期学校にも行きたくない、部活にも行きたくない、誰とも、スーパーのおばちゃんとも会話したくない、そんな日々がありました。
そんな状態からなぜ私が今度はミャンマーで他人の夢を応援する立場にまで成長することができたのか。それは、周りで僕を支えてくれた家族や友達、没頭できる野球、そして何より、私と似た境遇で育った本田選手や長友選手のドキュメンタリービデオでした。
「俺と同じような環境で育った本田や長友でもこんなかっこよく生きているんだ。こんな多くの人に希望を届けることができているんだ。じゃあ、俺にもできるんじゃないか!?」
同じ境遇にいた先輩が「君にもできる!」と励ましてくれていたのです。次の日には、そんな彼らを夢見て頑張ることができました。ミャンマーでもその構造は変わりません。しかしミャンマーでは軍政時代の情報統制の影響もあり、ロールモデルの素晴らしいストーリーは若者の元へと十分に行き届いていませんでした。
「さあ、次は俺がそんな人々のストーリーを沢山届けてミャンマーの若者を励ます番だ!!」
そうして、”Live the Dream”は始まりました。
Live the Dreamの実績とその後
クラウドファンディングで166万円を調達。
Facebookページのいいね数は100万(2021年3月時点)に到達。webサイトでもミャンマー中のキャリア・進学情報を収集・整理して若者へと届ける。俳優・起業家・ITエンジニア・歌手など80人近くのロールモデルのインタビュー動画、1000本近くのキャリア関連記事を制作し、頻繁に1万シェア程度の人気コンテンツを配信。キャリア・進学メディア以外にも動画プロダクションチームとして、トヨタやマイナビ、学研など日系上場企業の動画制作も請負う。2018年3月には200人規模のITキャリアセミナーを開催し、MRTV4など現地の大手TVなどで取り上げられる。
現在はTrust Venture Partners Co., Ltd.より資金調達を完了し子会社化を完了。後任に引き継ぐ。
Live the Dream TVPグループから資金調達・子会社化につきまして
失敗ばかりの僕でもきっと世界を変えられる ーミャンマー学生起業2年間の軌跡ー
日本に戻りリクルートに入社
その後、ミャンマーを離れ次へのステップへと踏み出します。次の舞台は株式会社リクルート。
Live the Dreamの2年間で思っていたよりも大きなことを成し遂げられた自負はありました。しかし、自分の未熟さ故にできないことも多かったと思います。また、その反省と共にもっと多くの人を巻き込んで皆が生き生きと働けるような大きな会社を創り、そしてミャンマーだけではなく世界中の人々にもっと大きなインパクトを与えられるような事業を生み出したい という欲が自分の中で湧き上がりました。そのためには自分の武器である積極性と他者を巻き込む力を更に伸ばし『営業力』という特化型スキル へと変え、多くの修羅場を経験することで人間としての器も大きくする ことが必要だと考え、そのようなスキルが一番得られるだろう、リクルートへ入社しました。(こちらの参照→皆様への大切なご報告 )
大好きな東南アジアと日本をよりシームレスに繋ぐために
ミャンマーから帰ってくると、「もう日本なんて、行くもんじゃない 」と愚痴を漏らすミャンマー人に出会い、ショックを受けました。日本の職場では『日本語が上手くないから』と言う理由で叱られ、奴隷のように時間外労働ばかりさせられていたようです。そんな環境に耐えきれず、失踪してしまう外国人労働者の数は日本全国で年間9,000人 (2019年)。人手不足の時代でより多くの外国人労働者に来て頂くためには、まずは彼らと日本人の心理的距離を縮め、外国人労働者が暮らしやすく、働きやすい環境を今すぐにでも整えること が急務だと実感しました。
解決策として、頭に浮かんだのがミャンマー在住時のシェアハウス生活でした。共に暮らす心優しいミャンマー人のシェアメイトが、佐々の『ミャンマーへのイメージ』を一変させたのでした。そんな体験を今度は『日本という国の代表』として創り、日本のファンを少しでも増やしたい というのが原体験になります。(こちらの参照→ASEAN HOUSE 創ります!ー東南アジア特化型国際交流シェアハウスー )
そのような想いで、東南アジア人と日本人が一緒に暮らすシェアハウス”ASEAN HOUSE”を東京都中野区にオープン。今まで60人を超えるシェアメイトが暮らし、700名を超える方が国際交流イベントに参加してくれました。
今後はよりスコープを広げて多くの外国人労働者の方を支援できるように、外国人材紹介事業・外国人雇用支援事業・外国人向け住宅支援事業などに進出していこうと準備を進めております。(2021/10現在有料職業紹介ライセンスを取得し、特定技能外国人の紹介をメイン事業として準備中。公式HPはこちら )
ASEAN HOUSEを建てて丸2年。ようやく気づいた『僕が本当に成し遂げたかったこと』
VIDEO