2021年2月1日、ミャンマーでクーデターが起こった。
ミャンマー実質上トップのアウン・サン・スー・チー氏を始めとしたNLD政権の何人もが拘束され、国軍が政権を奪取。
いきなりテレビは軍が運営する一局だけになり、インターネットも度々遮断され言論統制もできるようになる見込み。
そのような状況に対して市民は町中でデモを行ったり、CDMという社会や経済を立ち行かなくして国軍を揺さぶろうとする不服従運動を起こしたりしている。職場を離れて抗議デモに参加する動きが医療機関や政府関連機関、一部の警察から民間企業にいたるまで広がっている。
この様相に対抗するかのように軍部は市民に発砲したり、令状なしでデモ主導者を連行したり、終いには凶悪犯含む囚人2.3万人を市内に解放して放火や盗難を誘導したりと治安悪化によるデモの沈静化を試みている。
ミャンマー人の友達が多い僕のFcebookのタイムラインには、つい先日まで世界一平和だったヤンゴンの道中が日に日に変貌していき、この世とは思えない光景が広がっている。
私のアイデンティティが「ミャンマー」になるまで
ミャンマーで民主化が始まった2011年から4年ほど経った、まだタクシーの床に穴が沢山空いていた2015年に私は初めてミャンマーを訪れた。中央大学在籍時の教授の奥さんがたまたまミャンマー人ということもあり教授に連れられて、好奇心赴くままに行動した。
その時、私は多少コンプレックスを抱えた普通の日本の学生だった。
過去記事にもあるように東京大学に落ち周りからバカにされたことから、そのコンプレックスを振り払うおうと有名な企業に入ることをぼんやりと考え、周りから、社会から、なんとなく見え方が良く、就活に活きるだろうことばかりをしていた。と言っても、目の前の一番の関心事は大学でなんとなくイケてるだろうグループに入ってモテること。もちろん、男子校出身の僕には到底叶わず、タバコをふかしながら横目で見るくらいしかできず毎日が過ぎていっていた。
そんな時、ミャンマーを訪れた。世界が一変した。
就活での見え方とか、イケてるグループにいるイケてる髪型したやつとかマジでどうでもよくなった。
そこにはありのままの姿で毎日を楽しそうにそして一生懸命に生き、国を創ろうと頑張る人々がいた。
正直言って、当時の自分から彼らの様は多少不器用でダサく、可愛らしくも見えた。少し見下してしまったいた部分もあるのかもしれない。
しかし、少し滞在すると自分が生きていた、就活で良い評価を受けるためだけの世界は広い世界のほんの一部だということを心底実感した。世界の裏側には、同い年でこんなに純粋に目の前のことに疑問を感じ、はっきりと意見を言い、綺麗に笑顔を浮かべる人がいるのかと本当に驚き、たった2週間の滞在なのにどうしてか帰国する時涙が止まらなかった。
そして、そんな想いが日本に帰っても抜けなかった。ミャンマー訪問前はイケていた大学のグループがイケていなかった。丸の内の大企業の輝きが感じられなくなっていた。
ので、ミャンマーにもう一度NPOのスタッフという形で、今度は長期間滞在することにした。
前記事にもあるように、色々あり、気づいたらミャンマーに見せられて起業していた。
そして、気づいたら自分の創ったメディアは100万人ユーザーを抱え、社員も10人を超え、資金調達もしてしまっていた。
そしてそして、ミャンマーで気づいた「世界中で雇用を創り出すことで社会に貢献する」という本当の夢を叶えるために、日本に戻ってリクルートでせっせと働いていた。
そしてそしてそして、やはり就職してからもどうか日本にいらっしゃるミャンマー人の役に立てればとミャンマー人も日本人も一緒に住める「ASEAN HOUSE」を設立し、ミャンマー人と二段ベッドで上下で寝ていた。
ジェットコースターのように私の人生が回り始めたのは間違いなくミャンマーのおかげで、「ミャンマー」は私のアイデンティティにもなっていた。多分リクルートでも「ミャンマー」の佐々として認識されている。
「また、ミャンマーにいつか戻って実現することができなかった、もっともっと大きな会社を創ってもっともっと多くの仲間とミャンマーという国を創っていきたい。」と夢見て、罵声を浴びながらも新橋のビル街を駆け巡った。
そんな僕が訴えたいこと
そんな中で今回のクーデターが起こった。
毎日SNSやニュースを見るたびに、いや、仕事中もずっとミャンマーのことを考えては悲しくなり、落ち着かなくなり、どうしようもない悔しさに襲われる。
そんな状況の私が思うことが2つある。
我々にできることは淡々と目の前のことに向き合うことである
今回のクーデターにあたって、自分には何ができるだろうか?
死ぬほど考えた。
Youtubeでバズらせて国連に訴えかけようか?自分もデモに参加するのか?
いや、そもそもデモに参加するよりミャンマーの政治ってどうあるべきなんだっけ?
SNSで情報拡散しまくった方が良いかな?
どれも今の自分には無力すぎる。
もちろんASEAN HOUSEでミャンマーに帰れなくなった方の受け入れや、各種SNSを通した発信などもしていますが、それも無力なこと。
今できることは、またいつの日か、国を変えようと言う熱き想いを持った若者たちと、必死に汗かきながら国の発展を夢見て仕事ができる時に着々と備えること。
そんな日が来ることを切に願って、私は日本でまずは目の前のことに全力で頑張ろう。
現代日本人がミャンマー人のデモに意見するのは違う
ミャンマーでの多くのデモ行進が毎日行われている。命懸けで。亡くなった人もいる。
それでも彼らは外に出続ける。
「命懸けでするべきものなの?やめるべき」「一人がデモしたところで国は変わらないよ。」
そして、このコロナ禍で行われている日本でのデモに関しても悲しい意義を唱える人がいる。
「コロナ広がるだけでしょ。自分の国のことばかり考えて、バカじゃないの?」
確かに、このデモが正しいのか、ロジカルに、冷静に考えれば答えはNoなのかもしれない。
そもそも、民主化政権(NLD政権)が今のミャンマーの発展時の段階で国を治めるのに相応しいかどうかについては意見が分かれるし、近年のアメリカやその他世界の状況を見ているとそもそも民主主義って正しいの?とか色々考える。
開発独裁で大きな発展を遂げた国もシンガポールとか色々あるし、民主主義が絶対なの?とかミャンマーにいて現地を多少は理解しているからこそ余計思うところもある。
いや、そもそも発展を遂げることが正義なの?今のままでミャンマーちょー幸せそうじゃん。とかも。
ただ、そういう難しいロジックの話はあるんだけど、正しいだろうけど答えが誰にも分からない論を、命懸けで国を動かそうとしているミャンマーの方々に向けるのは違う。
我々日本人には分からなくて、ミャンマーの人たちにしか理解できないものが多分ある。
国を守るとか、現代の日本人にはわからない。だって、国を守ったり変えようと、主体的に考えたことないんだもん。1日にして国がひっくり返るなんてこと体験したことがない。まあ、だから若者は選挙に行かない。政治に関心がない。政治学科は就活でなんとなく有利そうだから進学する。
(ミャンマーが時代的に遅れている、ということを意味しているわけではないが)
多分、そうした今のミャンマーの方々の想いは明治時代もしくは戦後の日本人には痛いほど分かるだろう。
つい先日あるミャンマー人の友人にどうしてこんなにミャンマーの若者は熱狂してデモに行くのか聞いた。彼は言った。
「私たちみたいな想いを後世の人にはさせたくない」
そんな似たような想いで、我々の先祖の明治時代もしくは戦後の日本人は、歯を食いしばって必死に「日本」という国を創り上げてくれたからこそ、今私たちはこんなに平和に広瀬すずが髪型を変えたことを酒のつまみにしながらclubhouseで盛り上がれるんじゃないだろうか?
当事者でない人が分かったような口で、分からないのに否定するのは違う。
と言ってみたものの、やはりミャンマーに渡航して、住んで、現地の方々と泥まみれになりながら暮らしていた私だから分かることでもある気もします。
だからこそ、私には伝える義務があると思っております。まずは私の周りの方々から知って欲しい。
ASEAN HOUSEに来て、イベントに来て彼らと触れ合ってみてください。(コロナ明けたら!)
私のブログやSNS、ASEAN HOUSEの投稿に目を通してみてください。
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ミャンマーに早く平和が訪れることを祈って。
よろしくお願い致します。